内田樹のblogに
「フェミニンな時代へ」(2006年04月14日)という記事があった。「
社会的能力の開発において、どうやら性差が有意に関与し始めている」、すなわち女性が男性より優位の現状を、ご自分が勤務されている大学の新任教員が全て女性であったことを例に、説明している。
例えば、ー「女性のエディターの方がずっと仕事がしやすい。男性の編集者はしばしば「ウチダにこういうものを書かせたい」という明確なプランをもって登場するー
内田さん、その通りのことが、こちら国際開発の現場でも起こってます。世界的な現象でもあるが、日本も優秀な開発ワーカーはたいてい女性である。私も、新しく調査など始める時など、初めてコンサルタントが派遣される場合は、「女性」であるとほっとする。男性は、「何か自分のプランなり結論」を考えてくるのはいいが、状況に応じて柔軟にその考えを変更することが、ほとんどできない。若い人も同じだ。特に、政府系の人材にそういう傾向は強いが。
内田さんは、「ワインで酔っている」ので、その理由は述べないが、ー共同体が求めているのは「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男なのであるが、そのようなやわらかい感受性をもった男性を育てるための制度的基盤を半世紀にわたって破壊してきたことに私たちは今さらながら気がついたのであるー、として男性の精神の未熟さを嘆いている。
私は、この性差について、次のように考えています。
まず男性は女性に比べると、integrity、という能力が劣っている。integrityは、心の高潔さといっていいかもしれません。integrityの無いモチベーションは不純だし、そういうモチベーションで得た経験や知識は、実は役に立たない。ですから、優秀な人事担当者は、このintegrityを評価して人材選択するといいます。男性は、やっぱり「偉くなりたい」とか「沽券」とかに重点をおきますからね。内田さんの言うところの、精神の未熟さもそういうことではないか。
もう一点、男性は女性に比べると「ケアをする」という意識が乏しい。「ケア」とは、教師にとっては生徒が、親にとっては子供が、自立して成長する過程を「無償」で見守り、支援することだ(
ケアの本質―生きることの意味、メイヤロフ、ゆみる出版 ; ISBN: 4946509119 )。こういう「ケア」の意識は、自分の仕事にも向けられるべきものである。内田さんの「エデイター」も私の「国際開発ワーカー」も、女性の方が自分の仕事が何よりも良質で実り多いものであることを念頭に考えるし、何故そのためにそこにいるかをわかっているからだ。
男性諸君、よって私も内田さんと同様、将来ではなく、すでに女性優位の時代に入っていると考えます。このことを認識し、彼らと協力して良い仕事をするために、自分はどうしたらいいか考えてみようではないか。または、内田さんのいうように、「フェミニン」な男性になれるよう努力するか。
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「ククーシュカ ラップランドの妖精」「白バラ日記」「Dearフランキー」「大いなる休暇」「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」「ベルリン、僕らの革命」…。 何だかわかりますか?
はは、妻に連れられて、あるいは妻がレンタルDVDを借りて来て、観た映画です。
大江健三郎が4月18日の朝日新聞の「定義集」に、生活になじんだ新しい人間らしさということを書いていましたが、その中でシモーヌ・ヴェイユの言う「人間らしい資質」について触れられていました。 高校の頃、シモーヌ・ヴェイユに夢中になっていた私はドキッとしました。
それで改めて思ったのですが、Moiさんが書かれている性差、確かにあるなあと…。 私が好きなヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュの映画にせよ、あるいは脚本のサム・シェパードにせよ、やっぱり男の身勝手という面があるんだろうなあと。
同じ映画を観て、どちらもが気に入ったとしても、やはり観ているところが違う、気になるところが違うということを痛感します。 もっとも、おかげさまで私もずいぶん「フェミニン」になって来ているようで、映画好きの男たちと話が合わなくなっています。 去年のイチオシを訊かれれば、多分「Dearフランキー」と答えるでしょうから…。 今年はいまのところ「レント」でしょうか。 日本の公開は4月29日ですが、アメリカからDVDを取って、何度も観てしまいました。