Entries

Nostalgieー「戻れない苦しみ」

東京一美味しい餃子は、「哈爾餃子」であることを友人から聞いたが、未だ食していない。

父は、満州の鞍山という街で少年、青年時代を過ごしたので、私が子供の頃、皮の厚い餃子をよく作ってくれた。「哈爾餃子」とは、果たしてそのような餃子を言うのだろうか。いつの頃からか、ぱたりと作らなくなった。

それは、父の望郷の念が薄れた頃だったのだろうか。
毎夜のように子供たちに聞かせた、「満州」物語もそのころから話さなくなったと思う。

父が末期癌になって、死ぬ前に満州を見てみたいというので、家族で旅行した。
1995年、父にとって50年ぶりの満州でした。折りしも、「戦勝50周年」喧しい中、父の母校、満州医科大学、現中国医科大学をのあるシェンヤン(旧奉天)へ北京経由で入った。現中国医科大学は広大な敷地にあり、日本の援助で建設した新しい病院が聳えいた。しかし、病院の後方に広がる敷地にある煉瓦造りの建物や運動場は当時と全く変わらないと父は静かに言いった。父は、一瞬「時の回廊」を彷徨したのかもしれない、沈黙の長い時が過ぎた。

シェンヤンの繁華街の餃子屋で、いろんな種類の餃子を食べた。皮の厚い、ぽってりとした餃子は、かつて父が作った味がした。

クンデラは、Nostalgieの語源は「戻れない苦しみ」だという。(「l'Ignorance
無知 )。ユリシーズはカリプソとの7年にもおよぶ甘い生活より、危険に満ちた帰郷、妻Penelopeのもとへの旅、戻ることを選んだ。しかし、心から憧れたその故郷は自分を忘れていた。
Retour、戻るということは、ギリシャ語のnostosに語源があり、これはsoufrance、苦しみの意だそうだ。それゆえ、La nostalgie、ノスタルジーとは、戻ることへの満たされぬ思いによる苦しみだという。


60年代にフランスに移民したチェコ人に、grand retourはありえなかったこととをクンデラは吐露している。

餃子を作り、毎日のように満州を語った父の「ノスタルジー」はこのようなものだったのだろうか。
今は知ることもできない。


今、確かに外国の生活は、私にとっては、甘い生活、dolce vitaかもしれない。
それは、しかし戻るべきところが確保されているからだろうか。
この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)
http://nodava2004.blog15.fc2.com/tb.php/51-e94e3c3d

0件のトラックバック

8件のコメント

[C61]

MOIさん、こんにちは
私の主人の母は、サイパンで生まれ育ち、戦後沖縄へ戻ってきました。家族5人を失い、父、兄と3人、激戦の中を生き延びた、入水自決の生き残りです。
幼い母は何も理解できないまま、姉と手を繋いで海の中へ入り、沖へ沖へと歩いていたそうです。皆と同じように・・・でも、いつしか手が離れてしまい、姉を探すために引き返したことで、一命を取りとめることができたのです。
「今生きているのは、お姉さんのおかげ」
「母や姉妹が眠る海へ手を合わせたいけれど、もう行けないよ・・・」
二度と戻ることのない遠い生まれ故郷に思いを馳せるその表情は、何とも物悲しく、胸を打ちました。

もう一人、ボリビアへ移民後、現在はブラジルに住む伯母もいます。
「太陽も風も違うけど、星の光りだけは沖縄と同じだった。」
「乳飲み子を抱えても、いつもお母さんに会いたい、と泣いていた。」
ボリビア移民の開拓史も、また過酷です。
流暢な沖縄言葉で、涙声で話す伯母。私達には全く聞き取れないほどの、戦前の面影を残す言葉に、強い望郷の念を感じました。
今では、南米へ移民した1世にしか、本来の琉球の言葉は残ってないとも言われています。

それぞれの涙のNostalgie 大切なことを思い出すことができました。MOIさん、感謝の気持ちでいっぱいです。
  • 2006-05-05
  • かな
  • URL
  • 編集

[C62] ボリビアのオキナワ

かなさん、コメントありがとうございます。

ボリビア南部サンタクルスの近郊に、確か沖縄からの移住した方々の開発した地域があって、オキンワと呼ばれていると記憶しています。その2世の方と話をしたことがありますが、かなさんのおっしゃるように、確かに現在の日本人が使わないような丁寧な日本語を喋り、しっかりとしたお辞儀をしていらっしゃったことが印象的です。
移民1世の日本への郷愁は、想像を絶するものがあったと思います。それは、事実上「戻れない」ということでしたから。それにもまして政治的にも日々の開拓の労働にも過酷な状況の中で、「日本人」としての礼節と文化を守ってこられた努力には、並々ならぬ思いがあったと思います。

[C64]

MOIさん、
コロニア・オキナワをご存知なんですね。嬉しいです。
今ではokinawa という一つの村、地名になっていますよね。
2世・3世は日本への出稼ぎという現在、1世の方やその子孫全てが幸せになったのではありませんが、そのご苦労は無駄ではなかったと言ってあげたいですね。

太平洋戦争サイパン陥落の後、南洋諸島は次々と米軍に占領され、お隣の島テニアンから飛び立ったB-29 が、広島・長崎へ原爆を投下しました。
この事実を知っている若者がいるかしらと、ふと思いました。
「いま、平和とは」でMOIさんがおっしゃったように、勇気を出して考えてみよう、、自分にできる何かを目指して一歩踏み出してみよう、、と思っています。

  • 2006-05-08
  • かな
  • URL
  • 編集

[C66] かなさん

沖縄は、広島と長崎と同じように、私に「平和」ということや、「今ここにいる意味」というようなことを、問いかけつづけています。私にとっては、沖縄はそういう場所なんです。まだ行ったことはありませんが(笑)。その沖縄の方と、こうやってお話ができること、感謝したいと思います。これからも、よろしくお願いします。

[C77] レオナール・フジタ

 藤田嗣治の事を考えていました。まとまらなくて、とりとめないままです。
なぜ藤田嗣治という日本人は、レオナール・フジタというフランス人として亡くなったのか?
 彼が戦後フランスに戻ったのは、戦時中に描いた戦争画が批判の的となったからと言われています。
 5月21日まで国立近代美術館で「藤田嗣治展」をやっています。 彼の全画業を紹介する初めての展覧会だそうです。 実は「全画業」ではありませんが、1968年、彼が亡くなった年に「パリのフジタ展」というのを名古屋の松坂屋で観ました。フジタが80数点、その他のエコール・ド・パリの画家達の作品が50数点、大規模な展覧会でした。その頃はまだ未熟者だった筈ですが、今回も同じ感想を持ちました。成長していませんね。それは、「ウメェ〜!」の一言です。 とにかく上手い! 描きたくて、描きたくて、手が勝手に動いている感じ。頭は悩むかもしれないが、手は悩まない。
 私は、画家には「心の画家」「手の画家」「頭の画家」があるように思っています。勿論3つを兼ね備えている人もいます。藤田はどちらかというと「手」の画家だ、と思います。最上級の「手の画家」。
 彼の戦争画は、これまでに何点か近美で観ています。今回は「サイパン陥落」の大作がありましたが、これは初めてかもしれません。彼の戦争画はどれもそうですが、目を背けたくなるむごたらしい場面も精密に描かれています。これらを観れば彼の戦争画が、「戦意高揚」を目的にしたものではなく、ただ「戦争」を描きたかったのだという事が分かると思います。
 舌を巻く上手さで、凄い!と思うのですが、なぜか心に響かない。何かが無いのです。彼の「宗教画」もそう思います。それは私がキリスト教に疎いせいかもしれませんが。
 彼にとっては、絵が自由に描ければどこでも良かった。何国人になっても良かった。だからある意味で彼は常にエトランゼであり、母国でエトランゼであるより、異国でエトランゼである方が居心地良かったのかもしれません。
 MOIさんのように、帰る家(HouseでなくHomeね)がある人は、その家がある場所が故郷になるんでしょうね。
 表参道ヒルズでやっていたヴィム・ベンダーズの写真展の取材で、筑紫哲也がベンダーズに「あなたの故郷はどこですか?」と聞くと「それは妻です。」と、答えて見つめ合っていた。
悔しいから、観に行かなかった。

 そろそろ花菖蒲の季節。「哈爾餃子」でも食べにいきますか・・・

[C78] 哈爾餃子

アガサさん。何かの本で、多分筑摩の東京物語の誰かのエッセイに、西武池袋線車内で「藤田」を見かけたとありました。そこには戦争直後、故郷で孤立した画家の苦渋を垣間見るようだった、そして二度と日本の地に戻ることがなかった、と書いてあったと記憶してます。68年、確かに私もその展覧会にいましたが、そのころの私には、ただの少年でしたから、藤田は、当時好んでいたムンクほどの衝撃は与えてくれなかったような気がします。その16年後、パリの大学都市日本館で、彼の壁画に巡り合い、またある友人宅に、彼の猫の絵を見て驚愕したことがありました。実は、3月末近代美術館のH2Oで食事をしたのですが、時間が無くて、その展覧会は見逃しました。心残りではあります。今観たら、どんな感情を呼び起こしてくれただろうか。
藤田の晩年はどうだったのでしょうか。シャガールやクンデラのように、故郷を思い続けるように、あの作品群を描いたのでしょうか。
哈爾餃子、どんな味がするんでしょうねえ。

[C196] 懐かしいです。

父の母校、満州医科大学懐かしいです。子供の頃、私の父も満州医大の話をしてくれました。父にとっては若き日の大切な日々であったようです。世代的に戦争で複雑な心境がのぞかれる話でもありました。
  • 2006-07-11
  • renkon
  • URL
  • 編集

[C198] renkonさんへ

コメントありがとうございます。父は、卒業前に終戦になって引き揚げました。同級生には、戦後に学業に戻れず、医師になることを諦めた方もあったようです。
やっぱり子供に思い出を語るんですね。何度も聞いていたのか、シャンヤンやアンシャンの街が初めてでないような気がしました。

コメントの投稿

投稿フォーム
投稿した内容は管理者にだけ閲覧出来ます

Appendix

プロフィール

Moi

  • Author:Moi

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索